「科学的」という言葉そのものが


 「科学的」という言葉そのものがもはや宗教と化している現代社会においてもなお、人の良質な育成方法のデータを積み上げて教育的フィードバックを行うこともしていないし、子供を直接育てている人々に対しても子供の良質な育て方を学ばなければならないという義務となっている教育がない。
 全て未だにたまたま親になった人物たちの試行錯誤の繰り返しのみという実験場となっている。
 もちろん、子供を持った親のそのほとんどが「命がけで真剣に育てている」と信じているけれども、それは「思い」であって「歴史の中で積み上げられ研鑽され続けてきた最高に良質な子供の育て方」とは違う。
 どれほど真剣な思いがそこにあろうとも、間違いもあるだろうし、勘違いもあるだろうし、所詮個人レベルなのだし、その知識や学習能力や持って生まれた素質が優れた者ばかりが子供を産み育てているわけではないのはおわかりだろう。
 ならば次の世代の世界そのものを作り出していく子供を今自分の血を受け継ぎ、自分の影響を受けて育っていく子どもたちには今までのどの世代よりも最高の教育を与えてあげたいと思うだろう。
 押し付けや、無理強いではなく、その子に適切な今までで最高の教育が与えてあげられれば、親も嬉しいし、その子も楽しいし、その子供たちが担う世界も更に伸びるだろう。
 なのになぜ、未だにそういったより良い教育の積み上げやデータの共有、子供の教育方法を学ぶ義務、というものが存在していないのだろう。
 なぜ未だに放ったらかしで個人レベルの試行錯誤だけに留めてしまっているのだろう。
 こんなやり方はただの放牧実験場でしかない。
 ただでさえ核家族化が定着してしまって、その上両親は共働きとか、片親だけの家族がかなり増えてしまっているというのに、国策として次の世界を背負って立つ子供たちの教育にまったく力を注ごうとしないというのはあまりにも未来を見ようとしていない国を運営する者達の愚かさが目に見えている。
 教育を食い物にしている現在のシステムもあまりにもひどすぎる上にこれなのだから、一体運営者たちはどこを見ているのかと呆れ果ててものも言えない。
 言葉遊びと揚げ足取りの子供の喧嘩を平気な顔をして続けている愚か者ども。
 実運営を妨害し、進行を妨げているそんな者達は必要ない。
 大きな組織の中で、主要な運営者がそんな子供の喧嘩などしていようものなら排除されるのが当然だろう。なにせ運営を妨害しているのだから。大きな会社や組織でそんなことをしている人間を誰がそのままにしておくか。
 否だ。
 そんな運営に妨げとなる因子は排除されるだろう。
 当たり前の話だ。
 それなのによくも平気な顔をして続けていられるものだと呆れるしかない。
 子供に見せられたものではない。
 「なんで喧嘩してるの?」と聞かれても答えようがない。
 なぜなら彼らはただの妨害者でしかないからだ。
 運営を妨げる、子供レベルの喧嘩をわざと続けている愚かな妨害者でしかないからだ。
 子供に「あの人達みたいに立派な仕事ができる人になりなさい」と言いたくなる行動を心がけてもらいたい。
 その時間やエネルギーを、子供たちに最高の教育を与えられるシステム構築作りに向けてもらいたい。



 ひとつ勘違いしないでもらいたいのは「教育」というと、すぐに「学校教育」のことだと思い込む人が多数居るが、学校で教えているのはあくまでも学力的知識でしかない。
 私が言っているのはそっちの教育の話ではない。
 私が言っているのはもっと人間として基礎的な、人として生きていくという全体像に対するもっと根本的な部分に対しての教育だ。
 「教育は学校に任せておけばいい」なんてバカなことを言ってる人の意見など論外だ。
 私が言っているのは2015年3月13日にもここで書いたが、もっと根本的な部分の話だ。人として、家族として、人類として世代を継承してつながりを持ってレベルを上げていくという話だ。
 そういった家族、家庭内での影響や教育というのは学校では成し得ない。
 それさえもわかっていない人が多いのは現状からなかなか前進できない理由のひとつなのだろうとも思うが。