赤の他人に対する敬意


どんなに優秀な能力や頭脳を持っていても、
「赤の他人に対する敬意」
が無ければとても大きなひどい間違いを起こす。

身近な人間や親しい人物は大切にできても、
「赤の他人に対して何の敬意も持てない」
そういう人は重大な犯罪を起こす。

「赤の他人を傷つけることに躊躇がない」
普段は法律で縛られていて、それをリスクとしてしか計算していない。
自分の身近な人間以外は大切ではないから傷つけても構わないし踏みつけても構わない、そう思っている。

だから瞬時の感情や、とっさの判断時にはとても大きなミスを起こす。
「赤の他人の命よりも、自分の感情や利益が優先される」
それが理由だ。



人は社会的な生き物だ。

「自分にとって必要な物を作り出せる人、必要な何かを提供できる人は必要」
だが、
「自分にとって必要な物を作り出せない人、提供できない人は不要な人」
という価値判断をする。
これは通常の判断だ。

人は他人に対してランク付けをしている。
自分にとって重要な人、必要な人、顔見知り、どうでもいいただの赤の他人。
人は全ての人を同列に、同価値で見たりはしない。
つまり心の中に他人に対するランク付けがある。

「役に立つ人になりなさい」
「他人の役に立ちなさい」
これらの言葉は正に社会というものをよく言い表している。

人は自分の役に立つ人が大切だ。
自分の役に立たない人はどうでもいい人だ。
そういう価値判断をする。
そうせざるを得ない。
誰かの役に立てる人間でいることを重要とする。

そうでなければ社会構造が成立しない。
お互いが協力し合う仕組みが成立しなければ、秩序は無いも同然になるからだ。
協力しないのだから秩序などありはしない。

だからこそ人はお互いにとって必要な役に立つ人物になろうとする。
なるべきだと考える。
それこそが社会構造だ。

誰の役にも立とうとせず、自分だけのために主義主張を声高に叫んだところで誰も同意しないし、誰とも協力関係を築けるはずがない。
それが現代社会に起こっていることだろう。

「人の役に立つ人になりなさい」
「他人の役に立てるようになりなさい」
社会構造と秩序を保つために重要な方向性を含んだ言葉だが、最近では聞こえてこない言葉だ。
私の親も私に対してこれを一度も言ったことがない。

現代社会ではプライバシーや個人や平等であることを重要としすぎるあまり、社会構造「社会が成立するために必要なこと」をすべてきれいさっぱり完全に忘れてしまっているように見える。

人は個々で独立して勝手に生きてゆくことはできない。
法律で縛り付けておけばなんとかなるということでもない。
なのに人々はそれらをすべて忘れてしまっている。
「すぐ目の前の自分の足元」と、「お手軽に得られる快楽」しか見えなくなってしまっている。

ジェンガで積み上げられた高いタワーの一番下にある、基礎となる重要な1本がいつの間にか抜き取られている。
でも誰もそのことに気付けず、とにかく応急処置でバランスを取っているけれど、いつか大きく傾いてすべてが一度に壊れて砕け散ってしまうんじゃないか。

そんな風に感じる。